コントができるまで コント制作の理念
小林賢太郎テレビより
日本語というコミュニケーションをテーマにした番組
僕が面白い人でないといけない
子供の頃になりたかったもの、それはマジシャン
小道具とか作るの好きなんですよ
舞台自分が作ったものが一つでもあると安心するんですよ。
その小道具に関して一番知ってるのは自分だって。
共演者ですからね、小道具は。
美術と奇術と笑い
アイデアを言葉でなく絵にすること
アイデアを言葉にすると、言葉に縛られてしまう。
絵に書いておくと、それに合う言葉を後でつけられる
面白さって感受性の色んな部分が刺激されて出てくる
見つけることはできると思うんですよ
いくらでも転がってますから、面白いことは
それを、面白がらないともったいないでしょう
それくらいの感覚でいいと思うし、僕はそれくらいの気持ちで拾い集めてるし
大事なことはそっから先だよね
見つけてきたものを並べることは僕はアートでは無いと思うし
表現を仕事にする以上は、自分の中を通して、出されたものがみんあにお金を払って買ってもらうっていうレベルまでは磨き上げないとなんか、成立してないと思うから
仕事の谷間には必ず「客席に行く」というルールが僕の中にあって
「出す側」から「受け取る側」に1回はならないと、次に出すものを作る体制が整わないんです。
客観性を持てないんですよ。
人を笑わせてる人に対する憧れというものが子供の頃からありましたし
人を笑わせるタイプでない人が、人を笑わせる方法を必死に考えて、それが今も続いてるっておうのが、僕と笑いの関係、かなあという感じですね。
憧れっぱなしです。
0から1は作れなくても、もがき苦しめば0.1くらいは作り出せれるんですよ
それを10回繰り返せばいいんです
そうやって作ってます。
双方向テレビ
共感したいという欲は、表現を仕事にしているあらゆる人の中に絶対あると思う。
僕もその中の一人で。
今までもこれからも変わらないこととしては
僕が何を好きか、ということ。
僕こういうの好きなんだけどみんなはどう?
で、みんなも好きといってもらえたら僕も幸せ。
そこが根底にあると思います。
(創作への気力とエネルギーはどこから湧いてくるのか、という質問を受けて)
にほんごへの俺は同意を集めたオリジナルの実験日本語へのこだわりが怖いさんの作品を支えています人は笑わせるには相手との共通の知識が必要なんですね問えば僕がすごい著名なコメディアンでいつもやってるギャグとか合ってるものを広く皆に知ってもらってる状態だったらそれを共通の知識として利用していくことができるけど残念ながら僕はそうでは無いので既に持って入れる共通の素材知識としての素材を探すとおのずと日本語って言うものを選ばれていくと思うんですね
小林賢太郎にとっての観客
ラーメンズのコントは、役者としてだけでなく、演出・脚本も手掛けている小林賢太郎という劇作家によって書かれている。
小林賢太郎の脚本(戯曲)はすぐれたすぐれた文芸作品であり、文芸作品として鑑賞しても、十分に面白い。
ファンの中には、ファンのコミュニティの中で朗読会を開く者もいる。
しかし、小林賢太郎は自らの作品を、何よりも劇場で上演されるもの。観客によって受容されるものとして書いた。
あらゆる劇作家の例にもれず、小林賢太郎も、自分が想定しているやりかたで観客が反応することを期待したに違いない。
観客を笑わせたいと思う箇所で実際に観客が笑うことを、あるいは、観客を劇に集中させたいと思う箇所で、観客が舞台で起こっていることにだけ集中することを、臨んだにちがいない。
だから小林賢太郎は、どうすればそれが可能になるかについて、最新の注意を払いながら、戯曲を書いたと考えねばならない。
つまりこのブログは、小林賢太郎がひとりの劇作家として、どんなことを考えながら作品を執筆したか、観客を自分の望み通りに反応させるためにどんなたくらみをめぐらせたのかという問題を、検討しようとするのである。
小林賢太郎が劇作家としてたくらみをめぐらすに際して、何よりも慎重に吟味したのは、おそらく、どの段階でどんな情報をどのようにして観客に提供するかという問題だったであろう。
小林賢太郎がコントや演劇のために考えてること
このブログが吟味しようとしているのは、しばしばアートとも称されるラーメンズによつコントが、どんな手法をもって書かれたかという問題である。
こういう言い方をすると、登場人物の書き方やセリフの書き方や戯曲の組みたて方といった技巧的(テクニック的)な問題が、もっぱら論じられるのであろうと思う人がいるかもしれない。
もちろんそういうものについても論じるが、それは私が主に意図していることではない。
劇とは、コントとは、この世界で生きている人間を取り扱うものなのだから、劇作家がどんな手法を用いて作品を書いたかという問題を検討するためには、その劇作家が世界や人間をどのように捉えているかを知らねばならない。
あるいは、劇やコントそのものについてどう考えていたかどうかを捉えていたかを知らねばならない。
ある劇作家の手法について論じることは、実は、当の劇作家の世界観や人間観やコント感について論じることになるのである。
シェイクスピアの研究をする喜志哲雄は、『シェイクスピアのたくらみ』の中で「もしも、手法についての議論は小手先の技巧についての議論にずぎないと考えて軽視する人がいたら、そのひとは救いようがないほど浅薄な誤解を犯しているのだ」と述べている。
今後、このブログでは幅広い観点から、小林賢太郎の手法について分析していく。